オリジナル・ショートストーリー

《蝉時雨と夏の幻/前編》

 

■1■

 

「…あの、鮎里も降りようか?」

「いや、そのままでいいだろ…」

愛用の自転車の荷台に幼馴染みの少女を座らせたまま、僕は両手で握ったハンドルに力を込めて、ひたすらと坂道を登り続ける。

――高校生の女の子の重さって、こんなもんなのか――

「その、鮎里…重いでしょ?」

「ばっちりだな…」

「あ、ひどーい!」

彼氏の彼女に対する気遣いとしては、ここは否定するべきなのかもしれない。しかし重いものは重いのだ。この重さを全て上り坂のせいにできるほど、僕は人間ができちゃいない。

「どうせ病院で、美味いもんでも食いすぎたんだろ…」

「別に美味しくなんてないよー。でも、食べ過ぎたかもしれないのは認める…かも…」

「美味くないもんまで食いすぎるのか、お前は!」

「あははっ」

なんということもない、いつものやり取り。それでも僕は、鮎里とこうして過ごす時間が大好きだった。

遥かに高く青い蒼い夏空をバックに、緑のグラデーションをまとった丘が幾重にも連なる、典型的な鄙びた田舎の風景。

その緑の木々の合間を縫って、一本の頼りない舗装道路が、延々と続いていた。

容赦なく照りつける真夏の太陽と、日差しを反射するアスファルトの熱で、立ち昇った陽炎の向こう、僕たちの行く手の僅か先には、逃げ水のようなものさえ見えている。

僕たち二人の他には殆ど何も動くものはなく、聞こえてくるのはただ、頭上から降り注ぐ蝉たちの大輪唱だけ。

人間というのは妙なところで繊細にできているもので、蝉の声ひとつで体感温度がぐぐんと急上昇するものだ。

暑苦しいから止めてくれと言いたくもなるが、これも夏の風物詩。きっと蝉の鳴かない夏なんて、何処か物足りなく思うのだろう。

――どうせ先の短い命だ。今のうちに存分に鳴いておくがいい!――

悪代官か闇の幹部にでもなった気分で、そう心の中で呟く。

――!!!!――

次の瞬間、けたたましいクラクションの残響を残して、後ろから僕たちを追い抜いた物流トラックの巨体が、猛スピードで走り去っていく。

「わわわっ!」

僅かに遅れて巻き起こる突風に、慌てて頭に載せた帽子を押さえる鮎里。

情けない声に振り向いた僕の視界に飛び込んできたのは、長い黒髪と白いスカートの裾を風に躍らせる幼馴染みの姿だった。

「綺麗だよな…」

と思った。が、僕は不覚にも、無意識のうちにその言葉を紡いでしまっていたようだ。

「うん?」

聞こえていて聞き返すのだ、この意地悪な幼馴染みは。

だから、あえて僕も天邪鬼な態度を決めこむ。

「典型的な日本の、ザ・片田舎って感じだよな!」

「えー、そっちー?」

不満げに抗議の声を上げる笑顔の鮎里である。ほら、やっぱり聞こえていたんじゃないか…。

そんな鮎里の笑顔も、真夏の太陽に負けないくらい眩しく思えた。

「ほら、行くぞ!」

だらだらと続く坂道を、僕は再び愛車を押して歩み始める。

荷台に座ったままの鮎里は、最初のうちこそ、「頑張れ!」だのと励ましの言葉をかけてくれたが、やがてかける言葉の在庫が切れたのか、それはいつの間にか、怪しげな応援歌に代わっていた。

ちょっと前の流行歌を即興でアレンジした、極めて意味不明の代物だが、幸か不幸か僕以外に聴いている者など誰もいない。

綺麗な歌声だけに、少々勿体ない気もするが、僕の苦労に対する割に合わない報酬ということで、ささやかな独占を許してもらおう。

――!!!――

突拍子もない気恥ずかしい歌詞が鮎里の口から漏れたとき、僕は思わず愛車に急ブレーキをかけた。

「わっわわっ!」

またも妙な声を上げて転がり落ちそうになる鮎里を支えて、僕はそっと地面に降ろす。

「どうしたの、響ちゃん?」

怪訝そうに尋ねる鮎里がきょろきょろと辺りを見回してみるが、相変わらずの田舎風景が続いているだけで、特に何も変ったことはない。

「パンクでもした?」

愛車の前輪に歩み寄りながら、そう首を傾げる。

「足元に注意だ、鮎里」

僕はそう言って、鮎里の隣に並んだ。

「え、ヘビ? ミミズ? ケムシ? ク…マは違うか…」

一人ボケツッコミ状態の鮎里を無視して、僕はおもむろにしゃがみこむと、前輪の僅か先の路上を這う小さな物体を、そっとやさしく摘み上げる。

「何それ、可愛くない…」

隣に同じようにしゃがみこんで、僕の手元を覗き込んだ鮎里が、極めてストレートな感想を口にする。

「セミの幼虫だな。よく抜け殻が花壇の葉っぱとかにあるだろ?」

「あー、って、あのうるさいセミ?」

お前の歌といい勝負だ…と言いたいところだが、それは置いておこう。

「普通は夕暮れ後に地面から出てきて、夜中に脱皮するはずだけど、まぁ、何処にでもうっかり者はいるってことかもな…」

「ふーん…」

ちょっと載せてみて、とばかりに広げた鮎里の小さな手のひらの上に、やさしく幼虫を置いた。

「ねぇ、刺されたりしない?」

「セミに刺されて死んだやつの話を、聞いたことがあるのか、お前は…」

「ない、かも…?」

手のひらを様々に傾けながら蝉の幼虫を観察する真剣な表情の鮎里は、まるで小さな子供のようで、その口から飛び出てくるお間抜けな質問もまた、無邪気で愛らしい。

「お前、さっきのトラックに轢かれなくて良かったな…」

先ほど僕たちを追い抜いていった暴走トラックを思い出しながら、そう語りかける。

「そうだね、良かったね、セミさん」

鮎里も同調する。

「交通事故は怖いよー? めちゃくちゃ痛くて死んじゃうよー?」

「現役の入院患者にそう言われてもなぁ…」

「それもそっか」

――ぐぅ――

何処かで何かが鳴った。

それが鮎里のお腹の虫だと気付いたときには、鮎里の顔はすっかり真っ赤になって、俯いた前髪に隠されていた。

こういうところは、いっちょまえに年頃の娘なのだ。

「さて、行くとするか…」

鮎里はこくりと頷く。

静かにそっと立ち上がると、道路脇のガードレールぎりぎりから手を伸ばして、できるだけ遠くの茂みにセミの幼虫を放した。

「ばいばい幼虫さん。元気なセミさんになってね」

何にしろ、これといった娯楽のない小さな町である。

隣近所は生まれたときからの顔馴染み、学校すら町にたったひとつとなれば、僕と鮎里が出会うのは当然の成り行きといえた。

そりゃ、運命とか言えばもっともらしく聞こえるが、不良の銀次郎や、エロ大将の将太なんかと出会ったのも、そうなれば運命ということになってしまう。そんなのは勘弁して欲しい。

もちろん、小学校も中学校も鮎里とは一緒だった。クラスだって、さほど人数の多くない学校ゆえに何度も一緒になった。

家も比較的近所――都会の感覚でものを考えてはいけない。近所っていうのは、徒歩で行ける範囲全部が近所なのだ――だったし、親同士も何故か仲が良かった。

だからごく自然に、僕と鮎里はお互いの家を行ったり来たりしていたし、何をするにも殆ど一緒で、それが当たり前のように思っていたし、特に意識することもなかった。

学校には他にも近所の生徒はいたし、顔見知りの女の子だって何人かいたはずなのだが、その子たちとはさほど縁がなく、男女問わず一番身近にいるのは、結局のところ鮎里だったということになる。

隣町の高校に進学すると、さすがに少しは生徒の数も増え、新しい顔ぶれとの付き合いも始まったが、もはや公然と既定路線になってしまった僕と鮎里の関係を、あらぬ方向に曲解する者も多かった。

ありがたいといえばありがたい気もするが、逆に言えば、「響には鮎里がいるんだから、他の子に手を出しちゃダメ…」という意味でもあり、どっちもどっちといったところだろうか。

鮎里にしたって、僕以外に気になるクラスメイトの一人や二人いてもおかしくはないだろうし、そもそも鮎里が僕にこだわる理由なんてないだろう。

結局のところ、成り行きでこうなっているだけで、僕と鮎里の間には、いわゆる「特別な感情」なんて呼べるものはなかったと思う。

そう、つい先日までは…。

 

幼い頃からあまり身体が丈夫ではなかった鮎里は、僕と一緒になってはしゃぎ回るときも、おそらく相当無理をしていたのだろう。

そんな無理が祟ったのか、春の連休明けに体調を崩した鮎里は、唐突の入院生活を送ることとなった。

始めのうちは、たいしたことはないと高をくくっていた僕だったが、鮎里の入院生活が長引くにつれ、次第に不安な心境になっていった。

当の鮎里自身は、自分の病状を知っているのかいないのか、僕が見舞いに訪れるたびに変わらない笑顔で出迎えてくれた。

その変わらない笑顔が、ますます僕を疑心暗鬼にさせた。

この辺りでは一番の――といっても、選択肢など殆どないのだが――大病院だし、優秀な先生もいるだろうから心配は要らないとは思うが、やはり一度目覚めた不安感はそう簡単には消え去ってくれない。

当たり前のように日々そこにあったものが、ある日突然消え失せてしまう…そんな例えようのない恐怖感が僕の心を侵していった。

入院からひと月ほど経ったある日、夕暮れの病室で、鮎里は僕にこう告げた。

「明日、手術するんだってさ。さっさと終わって、早く元気になるといいねぇ…」

他人事のようにそう笑う鮎里の表情は今にも泣き出しそうで、僕以上に毎日不安と戦い続けてきた幼馴染みの姿が、陽炎のように揺らいでいた。

「え、ちょ、ちょっと! 何で響ちゃんが泣くのよ?」

次の瞬間、頭の中が真っ白になった僕は、少し細くなった鮎里の身体を抱きしめるように泣いていた。

何故か泣きじゃくる僕の頭を、鮎里がそっと優しく撫でて、もはやどちらが病人なのかわからなくなっていた。

■2■

 

予定よりだいぶ遅くなってしまったが、どうにかこうにか昼過ぎには、目的地の展望台に着くことができた。

展望台といっても、小さな郷土資料館と天文台をくっつけたようなもので、天文台の外周路――つまり資料館の屋上が展望台として開放されているだけの、極めて簡素な施設だった。

僕たちがここに来た名目は、単純明快に夏休みの課題を仕上げるためだ。

それでも、鮎里はせっかく丸一日の外出許可が出たのだからと、朝から張り切っておにぎりを作るほどの気合いの入れようだった。

屋上の展望台で二人、連なる緑の森を見下ろして頬張るおにぎりは、不恰好だが美味しい。

いつまでもこんな時間が続けばいいのに…と僕は思う。

この茹だるような真夏の昼下がりに、わざわざ炎天下の屋上で弁当を食べる酔狂な者は、僕たちの他にはいない。階下の資料館では、冷房完備の軽食コーナーが絶賛営業中なのだ。

だから今だけは、ここから見える風景全てが、僕と鮎里の貸し切りだった。

鮎里の病気についての詳細は、僕にはわからない。

いちおう手術は成功したらしいことだけはわかっているが、それにしては、事後観察にこれほど長い間かかっているのはおかしい気もする。

鮎里本人も知っているのかいないのか――いや、たとえ知っていたとしても、悲観的な内容であれば、きっと僕に打ち明けたりはしないだろう。

「あ、あの人、魚釣りやってる! いいなぁ…」

目ざとく眼下の渓流にいる釣り人を発見した鮎里が、満面の笑顔で指を差す。

「お前、魚、好きだったか?」

「うん! 塩焼きにすると美味しいんだよ!」

「まだ食うんかい!」

けらけらと笑う。そんな鮎里の横顔は今も昔もまったく変わらなくて、いつも傍で眺めている僕もたぶん変わらなくて、それが何処か嬉しくて悲しい。

「アユだったら共食いだぞ…」

「あー、そうだねぇ…」

思えば、鮎の里とはこれまた風流な名前である。昨今流行のキラキラした名前に比べて、趣きがあるというか、絵心がある感じがする。

「そういえば、『あゆり』って、いい名前だよな…」

「え、何を今更言ってんの? どうしたの、響ちゃん…」

予想外の褒められ方をして、鮎里の表情が動揺する。気恥ずかしさと嬉しさの入り混じった微妙な表情で照れ笑いする。

その表情にどきりとするのは僕のほうだった。

「でもこれね、実はお父さんが昔好きだった歌手の名前なんだってさ」

「歌手?」

「えーとね、中学の頃好きだった『さゆり』さんって歌手と、高校の頃好きだった『あゆみ』さんって歌手と、合体させたんだって」

「なんじゃそりゃ…」

「だよねー」

そう言って、またも鮎里はとびきりの笑顔である。夏の陽射しが良く似合う、明るく健康的な笑顔だ。

「そいつは歌手じゃなくて、親父さんの昔の彼女だな、きっと」

「えー、まさかー」

――彼女――か…。

自分で叩いた軽口を、僕自身が過剰に意識して動揺してしまう。

思えば、周りから鮎里との仲をからかわれるたびに、表面的には否定しつつも、まんざらでもない気もしていたのは事実だった。

それが、いわゆる恋愛的な「好き」とイコールなのかは自覚していなかったが、「好き」と「嫌い」の二択で言えば、おそらく「好き」なのだろうと思う。

もっとも、たとえ僕が鮎里のことを気にかけていたとしても、鮎里が同じようにそうだとは限らないわけで、鮎里が何を考えているのかなんて、僕にはまったく想像がつかなかった。

「どうしたの、響ちゃん? 今日は何だか変だよ?」

急に黙ってしまった僕の顔を覗き込んで、鮎里は心配そうに尋ねる。

あまりの顔の近さに、僕の心臓がひときわ大きくどくんと鳴って、その音が鮎里の耳にまで届いてしまったかもしれないと、斜め上の方向に意識がいってしまう。

言いようのない照れくささから逃げるように、僕は咄嗟に立ち上がり、展望台の縁のフェンスに駆け寄ると、遥か向こうの山の天辺めがけて声の限り叫ぶ。

「僕はいつだって変だぞー!」

背後からばたばたと走ってくる鮎里も、続いて叫ぶ。

「鮎里もいつでも変なんだぞー! だから、変な響ちゃんは大好きだぞー!」

僕の隣で力いっぱい叫ぶ幼馴染みの姿を、突拍子もないことを叫ぶその眩しい横顔を、僕は見てしまうのが怖くて、そちらに向き直ることができなかった。

眼下の渓流では、何事かを叫ぶ僕たちの姿に気付いたのか、振り返った釣り人が不思議そうにこちらを見上げていた。

面倒な夏の課題とやらをようやく片付けた頃には、眩しかった太陽もすっかり西の空に傾いていた。

再び屋上の展望台に出た僕たちは、暮れていく夕陽を眺めながら、相変わらずの取り留めのない話で時間をつぶしていた。

気の早い一番星を見つけた鮎里が、子供のように指を差してはしゃいでいる。

そのオレンジ色に染まった華奢な後ろ姿が、何処か儚く美しかった。

「綺麗…だよな」

あえて鮎里の耳に届くように、行きの道中と同じ言葉を紡ぐ。

「あー、またどうせ、『夕陽が…』とか言うんでしょ?」

こちらを振り向きもせずに鮎里はそう言った。その声は何処か寂しそうで、何処か嬉しそうだった。

「カメラ、持って来れば良かったかな」

今この一瞬を切り取って、永遠に残しておきたい…という不思議な欲求が、突然の夏雲のように沸き起こって、僕はそんな言葉を口にする。

「そうだねぇ…」

鮎里は遥か彼方の稜線に沈んでいく太陽を眺めたままで答える。

「でも、無くて良かったのかも…。鮎里たち二人の心だけに、この思い出の記憶が残るんだし…」

まぁ、鮎里の言いたいことはわからないでもない。

写真なんてなくたって、二人で過ごした思い出はいつまでも色褪せることなく、心の中に刻まれていくものだ。

ロマンチックな理想論かもしれないけれど、それでも僕たちはそう信じたいし、そうありたいと思っている。

たとえ、永遠なんてものがこの世になくても、だ…。

「いいのか、それで?」

「うん、いいんだよ、きっと…」

僕の問いに、今度こそ振り返って、鮎里が微笑む。何かを悟ったような、何かを決意したような、そんな笑顔だった。

「ねぇねぇ、響ちゃん。実は鮎里、夢があるんだけど…」

「ほう、鮎里の夢、ねぇ…」

いつになく真剣な表情の鮎里に見つめられて、僕は空気をはぐらかしながら答える。

「『響ちゃんのお嫁さんになりた~い!』とか言うなよ?」

我ながら見事なまでの墓穴だ、と言ってしまってから僅かに後悔するが、全てはあとの祭りである。

一瞬、きょとんとした表情で固まった鮎里は、大きな澄んだ瞳でまじまじと僕の顔を見つめて――そのまま暫く時が止まった――ような気がした。

どのくらいの時間が経ったのか、視線に耐えられなくなった僕が先に目を逸らすと、唐突に鮎里が吹き出した。

「あっ、あははっ! 鮎里にお嫁さんになって欲しかったんだ、響ちゃん!」

よろよろとたどり着いた近場のベンチに倒れこみながら、失礼にも腹を抱えて笑い転げている。

どうでもいいから人を指差すな、お前は!

「えへへへへ、ひー、く、苦しぃー!」

こうなれば、ヤケクソである。開き直った僕は正直に打ち明ける。

「まぁ、あれだ…。他のやつに取られちまうよりはいいかな、とか…考えたことは、あるかもな…」

「あぁ~」

存分に笑い転げた後、ようやく笑いのツボから開放されたのか、涙目の鮎里がベンチに座り直して口を開いた。

「うーん、別に鮎里、心配するほどモテないよ?」

それはお前が知らないだけだ、と思う。

確かに、クラスでダントツの人気者というわけではないし、どちらかというと、同世代のクラスメイトよりも、近所の爺婆連中からの人気があるような不思議なやつだが、それでも鮎里に好意を持つ酔狂な若者は、決して少なくない。

周囲の友人たちがそれとなく余計な気を回したり、ぼんやりと僕と鮎里の関係を仄めかされることによって、淡い恋心の多くは水泡に帰していたし、遠まわしのアプローチに到った勇気ある男子も、極めて鈍感な鮎里の前に、不発弾を数発打ち込むだけで力尽きていった。

知らぬのは本人ばかりなり、とはよく言ったものだと思う。

「聡史とか、お前のこと、ずっと気にしてたぞ?」

「え、聡史君って、あのイケメンの聡史君?」

「ああ、既に過去形だけどな…」

「過去形…って、えー、響ちゃん、なんで教えてくれなかったのよ!」

なんで…って、それを僕に言わせますか、鮎里さん…。

そもそも、もし僕が聡史のことを鮎里に話していたら、どうするつもりだったのだろう…。本気で付き合う気でもあったのだろうか…。

「話してたら、付き合う気だったのかよ…」

自分でもわかるくらいに棘のある物言いで、そう鮎里に問う。

どちらにせよ、全ては過去の話であるのだから、今更期待はずれの答えが返ってきてもどうということはない。そう、どうということはない…はずだ。

というか、期待ってなんだ。僕は何を鮎里に期待しているんだ…。

「んー、やっぱり断るかなぁ…」

「ほう、そいつは意外だな」

ささやかな安堵に胸をなでおろす。何でこんなにも些細なことに一喜一憂しているのか、自分でも不思議だった。

「だって、響ちゃん、泣いちゃうじゃない!」

「泣かねぇよ、別に!」

全身で否定する僕を、にこにこと悪戯な表情を浮かべて見つめる鮎里。何処まで本気なのかわからずに、じっとその笑顔を見つめ返してしまう。

「鮎里にお嫁さんになって貰えなかったら、響ちゃん、困るんでしょ?」

「別に、こま…」

確かに人生、幾つかの出会いと別れはつきものだ。

だから、たとえ鮎里と将来的にどうこうすることがなくても、それはそれで仕方がないことなのかもしれない。

そうすることで僕も鮎里も幸せな人生が送れるなら、そういう道もあるだろう。頭ではそう理解している。

それでも、あの時――聡史の恋心に気付いたあの日――僕の心に渦巻いていたのは、底知れぬ不安と焦りの入り混じった、言葉にできない感情だった。

正直に言えば、僕と鮎里がこの先付き合うことにならなくても、それはそれでたいしたことはなかった。今までと同じ日常が、これからもまた続くだけのことだと思っていたから。

しかし、もし鮎里が聡史と付き合うようなことになったら――いや、自分ではない誰かと付き合うことになったとしたら、毎日のようにその光景を、二人のすぐ傍で眺め続けなければならないのだ。

それは視点を変えれば、聡史の目には、今の自分と鮎里の関係がそういう風に見えているかもしれない、ということでもある。だから、僕は聡史の胸中が痛いほどに理解できた。

果たして僕は、そんな状況に耐えられるだろうか…。笑顔で二人を祝福してあげられるだろうか。

――否、だ――

その結論に到るのに時間はかからなかった。

「んー、じゃあ、響ちゃんの告白のお返事は、しばらく考えておきます」

鮎里は嬉しそうにそう言って、ありがとうございました、と頭を下げた。

その姿があまりにも幸せそうで、なんか悔しくなった僕は、再び天邪鬼になる。

「別に告白なんてしてねぇし…」

■3■

 

辺りの風景が紫色の闇に閉ざされようとする頃、僕たちは愛車とともに丘を下っていた。

頭上には、幾つかの星が競い合うように煌いて、大きな光の帯を描いていた。

僕の背中にしがみつきながら、不自然なほど首を傾けて、鮎里はその満天の星空を飽きることなく眺めていた。

「変な体勢でコケるなよ?」

「んー」

午前中の炎天下に散々僕たちを――いや、僕だけか――てこずらせた急坂は、嘘のように僕たちを歓迎して、心地よい風をはらみながら愛車はスピードを上げていく。

「病院だと、この時間はもうカーテン閉められちゃうから、なんか夜空も新鮮だよー」

「そういえば、お前、入院患者だったな」

「そうだよー、もっと丁重に扱えー」

「そんだけ元気なら、ここから歩いて帰るか?」

「ひどーい、なにそれー」

互いに口にするばかばかしい会話が、あっという間に向かい風に流されていく。もちろん、聞いている者など、満月の他には誰一人いない。

「月が綺麗だな…」

「ふむ、なになに? お前の方がよっぽど綺麗だよ?」

「言ってねぇし!」

「あははっ!」

酔っ払いか、お前は! 心の中でそう言いつつも、病室ではなかなか聞けない鮎里の明るい声を、心から嬉しく思う自分がいた。

「あ、流れ星だー。響ちゃん、止めてとめて!」

「ほいよっ!」

急ブレーキをかけた僕の背中にもたれこむようにして、鮎里のあまり大きくない胸が触れた。

慌てて荷台を飛び降りた鮎里は、そっと目を閉じて両手を組んで何事かを祈る。

「間に合わないだろ、三回…」

「いいのいいの、気分なんだから、こういうのは…」

祈り終わると、そう言って、鮎里が再び荷台によじ登る。よいしょ!という掛け声が年寄りくさい。

「行くぞ?」

「おー」

僕らはまた、ゆっくりと帰途を進み始める。

病院から今日一日の外出許可を貰っているとはいっても、決められた門限までに帰らなければならないのはお約束だ。

まだ十分に余裕はあるはずだが、いずれにせよ、何もないこんな場所に長居をする必要もなかった。

「そういえば、さっき、お前、夢があるとか言ってたよな…」

「うん、あるよー」

「願い事、やっぱりそれか?」

僕の腰に回した鮎里の腕に、僅かに力がこもった気がした。

「そうだねぇ…」

それだけ言って、鮎里は沈黙する。だから僕はそれ以上、もう何も尋ねることができなかった。

どれくらい二人は無言で走り続けたのだろう。

虫たちとフクロウとが奏でる囁き以外は何も聞こえない夜の峠道を、僕たちはじっと息を潜めるように下っていった。

気がつくと、鮎里は星空を見上げるのに飽きたのか、ぴったりと僕の背中に張り付くようにして、その細い身体を預けていた。

「お願い…」

「ん?」

静寂を破って紡がれた鮎里の呟きが、僕の耳をくすぐって、すぐに彼方へと流されていく。

「知りたい? 鮎里の夢…」

「そうだなぁ、お前が話したかったら話せばいいし、話したくなかったら無理に話さなくてもいいだろ…」

それは、この場でできる僕の精一杯の強がりだった。

本心から言えば、鮎里のことは何でも知りたいと思っていたし、その夢の実現に少しでも力になれるなら、それは僕にとっても嬉しいことだった。

しかし、いくら幼馴染みとはいえ、それを無理強いして聞きだすほどの権利は、僕にはない。

というよりも、だ…。

こんなに長い間、すぐ近くにいた鮎里の願い事、叶えたい夢に、これっぽっちも思い当たることがない自分の不甲斐なさに呆れ、驚いていた。

「そっか…、優しいね、今日の響ちゃんは…」

「ばか言え、僕はいつでも優しいんだ、鮎里には…」

「ん、そうだね…」

将来、何処かの誰かが、鮎里の夢を叶えてやる日が来るのだろうか。

そのとき、笑顔の鮎里の隣にいるのが僕自身でないとしたら、僕は果たしてどうするだろう。

願いを叶えた幼馴染みの女の子を、笑顔で祝福してあげられるのだろうか。

もしそれが僕にとって耐えられない痛みだとして、では、その誰かの代わりに、僕が鮎里の夢を叶えてあげることはできるのだろうか。

鮎里のために全てを差し出す度胸が、この僕にあるのだろうか。

そして何より、鮎里はそれを望んでくれるのだろうか。

僕とまだ見ぬ誰かを天秤にかけて、鮎里は僕を選んでくれるのだろうか。

全ては、この満天の星空と同じく、闇の中だった。

 

病院の門限を破ること約五分、玄関前で待ち構えた当直の看護師に叱られながら、名残惜しそうな鮎里を託す。

ばいばい、と小さく手を振る鮎里を背にして、自宅への帰途につく頃には、遅い夏の夜も十分に更けていた。

蝉の声か、鈴虫の声か、ころころとした音色が辺りを涼やかに彩っていた。

病院のある隣町のこの辺りは、僕や鮎里の住む町とは、川を挟んだ対岸にあたる。

直線距離ではほんの僅かな道のりだが、残念ながら適当な橋がない。少し下流にある県道の橋まで、わざわざ迂回しなければならない不便な立地だ。

ようやく鮎里の重さから開放された軽やかな愛車とともに、最近造成された新興住宅地を駆け抜ける。

聞こえてくるのは、あちらこちらで花火遊びを楽しむ親子の笑い声。

色とりどりの光に照らされて、暗闇に浮かび上がる子供たちの笑顔が、花火に負けまいと輝いている。

前はよく、僕や鮎里もああやって楽しんでいたなぁ…と、そんな懐かしさに駆られる。

――!!!――

極めて唐突に、そんな僕の安らぎを打ち破ったのは、またしても蝉の声であった。

咄嗟の大音量に危うくよろけながら、暫し周囲を確認する。

すると、少し先の道端の植え込みで、けたたましい程に鳴きながら、必死にもがく一匹の蝉。

愛車を止めてよく見れば、どうやら運悪く蜘蛛の巣に引っかかってしまったようだ。

決して諦めずに健気に頑張っている姿が、何処となく鮎里に似ているような気もして、なんだか他人の気がしない。

いや、もしかしたら、僕自身に似ているから、なのかもしれない。

だから、巣の主である蜘蛛には少し気の毒だが、僕は暴れる蝉を開放してやることに決めた。

そっと摘んで、やさしく引き剥がす。

蜘蛛の巣の拘束から開放された途端、一言の礼も言わずに、小さな蝉は夜空に消えていく。まったく、近頃は蝉まで礼儀知らずなやつばかりだ。

僅かに遅れて現れた美しき巣の主は、驚いたように僕を見つめる。

――悪かったな、おい…。だけどまぁ、世の中、そういうことだってあるさ、きっと…――

イケメン蜘蛛の――あ、雄とは限らないか――恨みがましい視線を背中に浴びながら、僕はそう心の中で笑い、再び愛車に跨り走り出す。

夜空にぽっかりと浮かんだ満月だけが、その一部始終を静かに見守っていた。

 

■後編へ続く■

 

[蝉時雨と夏の幻/前編]/Original/2015.9.1/Asami.Manaduru

新規作品:『Tinami』初掲


《こめんとがーる ミリーの地下空間♪》

 この作品は、実はずいぶん以前から構想はあって、でも、書かないうちに夏が終わる…っていう展開が、ずっと続いていたみたいですよ。

 鮎里という名前は、読者の印象に残りつつ、キラキラしない名前ってことで、なかなかお気に入りみたいです。

 あ、ちなみに真鶴さんの田舎は、辿ってくと新潟らしいですよ? コシヒカリと豪雪で有名な辺りですね。

 やっぱり日本の田舎っていいですよね…。四季それぞれに魅力的です。